デンマークの教育において問われ続けること

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ブログの更新は止まりがちではありましたが、こっそり実はデンマークの教育に関する個人調査は続いているのでした。そして今日はまた、あるインタビューを通じて感じたところがあったので、ウチの所長のブログに呼応する形でデンマークの教育について自分の感じたこと、考えをまとめてみる。

 

私がデンマークに来て以来、ずっとモンモンと考えていたことの一つに、「デンマークの教育環境は、少なくとも幼児教育においては抜群にいい(これについてもいつかゆっくり書きたい)。それはもう抜群に良いと感じるし、息子がデンマークで幼稚園へ通えたのは本当にラッキーだった」と思う一方で、「では、初等教育以降に関しては・・・??」というのがずっと善し悪しの判定ができずにいた。その理由は主に、「ゆるさ」で、まず最初に度胆を抜かれたのが、”12-13歳くらいになるまで、テストが一切ない”という驚異のシステム(デンマークでは、他者との比較の上で自分を評価することは良しとされない)。それまでの間、デンマークでは子供たちや親は、相対的に子供がどの程度学習内容を理解しているのか、知るすべがない。それはすなわち、もし子供が授業を理解できなくって落ちこぼれていたとしても、救済措置が全くとられないも同義だろうと。それはどうなのだろうか?伸びる子は伸びる。だろうね。でも出来ない子はいつまでたっても出来ない。そこに対してのフォローアップがない。出来ること出来ない子の差は小学校の間開いていくばかりじゃないのか?それって教育としてどうなの?子供の可能性をつぶさないように、たとえ最初は苦手だったり嫌いだったとしても、ある程度フォローアップしてあげて未来の可能性につなげてあげるのも教育の役割なんじゃないの?と。

 

ただでさえ、デンマークの小学校の授業はゆるっとしているというし。算数では、最初の一年は足し算も引き算もなく、ただただ生活の場の中の数字というものに親しむ、で終わってしまうという話も聞くし、授業中に何をやったか聞いてみたら「マッサージの仕方ならったよ!」で終わってしまったという話も聞く。日本のように明確な学習指導要領があるわけではなく、先生個々人にその内容は任され、さらに職員室というものもなく(最近は学校に残っていなくてはいけない時間が伸びたために談話室のようなものはあるらしい)教職員間で授業でどんなことをやるかなどの情報交換などはほとんど行われていない。(日本のように定期的に研究授業などで他の先生の授業を見るような機会も全くないそう)

 

結果、以前も書いたがPISA学力到達度国際比較ランキング表(15歳時点)を見てみると、

  • 国(数学、読解力、科学)
  • 日本(7位、4位、4位)
  • デンマーク(22位、25位、27位)

といったように日本との”学力差”は歴然である。

 

・・・にもかかわらず、デンマークは依然として幸福度世界No.1の国であり、さらにPISAのランキング【だけ】を見てみたら国際競争力がなさそうにも見えるのにも関わらず、世界大学学術ランキング(2015)では東大(21)、京大(26)、コペンハーゲン大学(35)と引けを取ることもなく、さらにレゴやNovo Nordiskといった世界的に活躍する企業などもたくさんあるし、デザイン・インテリア等に関しては無論言うまでもないわけで。

 

それは何故なんだ、と、ずっとずっと考えてきて、最近ふと、デンマークの教育現場において、幼児教育から高等教育までずっと問われ続けるある問いに気が付いた。

 

「あなたは、何者ですか?」

 

私の働く北欧研究所のインターン生が寄稿したギャップイヤーの記事だと「あなたは何をしている人ですか?」と書いてあるけれど、デンマークの人と話すとまず聞かれるのが、「あなたはなぜデンマークにいるの?」「あなたは何の仕事をしている人なの?」。どこの国から来たのとか、年齢とか、家族構成とかより何より、「あなたは何者なの?」と聞かれる。これは、大人に限ったことではなくて、実はデンマークにおいては当たり前に子供のころから繰り返されている、「あなたは、何者ですか?」の問いの一つなのだと思う。

 

幼稚園のころから、何かを強制されることもなく、自由に自分がやりたいことを尊重される。自分が今何をしたいのか、幼いころから選ぶということをする中で、自分を知っていく。また互いの個性を尊重しあうことを学び、そこから社会性を身に着けていく。互いに尊重しあうために必須なのは、互いを知ること。そこでやはりキーになるのは、「あなたは、何者なの?」という問い。あなたは、何が好きなの?あなたは、何を選ぶの?それはどうして?あなたはどう感じたの?

 

学校が始まってからは、授業は日本のような座学は比較的少なく、プロジェクトベースの授業スタイルへと変わっていく。ある課題に対して、グループで課題解決へと進んでいくわけだが、ここでもやはり、自分の考えを伝え、相手の考えを知ることから始まる。「あなたはこの課題にどう取り組むの?」「なぜそうするのが良いと感じるの?」「あなたはどうしたいの?」それは、授業を聞き、ノートをとり、答えが一つである問題を、テキストとノートとにらめっこして解いてきた私達が体験したことのない問い。他者と比較する必要はない、答えは一つではない、では何が指針になるのか?それは自分たち自身の中にある。「あなたは何者ですか?」「自分は、何者なんだろう?」この問いを、彼らは幼いころから繰り返し繰り返し、教育システムの中で問われ続ける。

 

今日インタビューに行ったSFO(学童)のリーダーもこのような話をしていた。SFOで提供するプログラムは、教員が、何に情熱をもって取り組むことができるかというのが大事なのだと。できる、できないではなく、その情熱がなければ、子供たちはそのプログラムから魅力を感じることはないでしょうと。ここでも、人を評価する軸は、「何ができるか」ではなく、さらにもっとその人の本質である「この人は何に強く興味を持っている人なのか」ということ。(もちろん社会/仕事である以上、「やりたいこと」「できること」「もとめられていること」のバランスはデンマークでも重要だと思うが、比重のかかり方が違うと感じる)

 

日本の教育システムは、常に評価がつきまとう。それは自分自身が下した評価ではない、他者がシステマチックに数値化したもので、そのものさしで、私たちは他人から「君は数学が得意だね、そして国語が苦手だね」と判を押される。そして入試で問われるのは、常に「何ができるか」であって、「何がしたいか」ではない。私たちは、常に自分の能力値でのみ計られ、分配されていく(一部のAO入試などは除くが、でもその結果いい生徒が入った!という話はそんなに聞いたことがない。おそらく日本の教育システムの中に突然自己推薦システムを導入しても、それをうまく使える人も評価できる人もいないのではないかと思う)。結果、突然大学や社会に出て、「君、自分で自分がやりたいこと考えなさいよ」といきなり放り出されて唖然とする。今まで既存の物差しの中でそのスコアを伸ばすことにだけ注力してきた人間が、ものさしもなにもない社会で、自らその価値を創り出すことなんて簡単にできるわけがない。

 

デンマークの教育は、その中身ではなく、実はもっと大きな「人間」という器を育てていくシステムなのではないか、と思うようになった。器さえ育っていれば、本人が望んだときに、そこに好きなものをたくさんたくさん詰めこんでいけばいい。もし、器はそのままに、中身にぎゅうぎゅうに情報だけを詰めこまれすぎたなら、最終的にはまるでメモリ不足のパソコンのようにおもたくなってしまうだろう。彼らは無駄なものはきっと詰めこんでいない、その余白から生まれるものこそが、「創造性」なのかもしれない。

 

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